コザクラインコとの8年間

さようならキリン

1-1:お別れの序章

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キリンが亡くなって6日経ちました(執筆当日)。
キリンが使っていた物を分別し、再利用不可の齧りたおされた「とまり木」「オモチャ」などを処分しました。少し、気持ちも落ち着いてきました。本当は、もっと泣いて泣き続けるのかな?と思っていたんですけど、火葬する日の朝、泣きはらした顔を見たら「なんじゃこの顔は?!」とビックリして涙がピタっと出てこなくなりました。(かなりヒドイ顔だったので)・・・思えば、自分の泣きはらした顔って初めてみたんですよ。

キリンはもう少し長生きすると思っていました。10年は大丈夫だろうと自分で勝手に思い込んでいました。前の浜すけが8歳だったので、一回り以上体の大きいキリンなら10年は楽勝だろうと、体格で判断していました。まさか浜すけよりも短かったとは・・・想定外で、それも急に亡くなってしまったので、余計にショックでした。

今から思えば「あれ?あの頃から」って予兆らしきものがありました。あくまでも「今から思えば」なんですが。11月頃から袖口に捕まるとズルっと落ちるのが多くなり、「握力が弱くなった?衣類が厚くなったからつかみにくいのかな?」と不思議に感じていました。

12月の中旬頃からは急におとなしくなり、あまり声に迫力がなくなりました。私に「包丁持ってる時にビービー鳴くと飼い主が怪我するでしょ!」と怒られ続けたので、学習してくれたのかな?なんて自分勝手に思い込んでたんですが、きっとあの頃から体調が悪かったんでしょう。それを気づいてやれずに可哀想な事をしたと反省しています。

12月22日頃からは遊ばなくなりウトウトする日が多くなって「元気ないなぁ?温めてあげようかな?」と思っていました。ちょうど12月なのに日中が春のように暖かく夜はぐっと冷え込むような日が続いていて、羽根もポロポロ抜けてきていたのです。てっきりそのせいだと思っていました。去年と今年とで手術を2回もしているので体力が落ちたのだろう・・とも思っていました。

27日と28日の朝、ヒドイ嘔吐があり慌てて病院へ。その時は「換羽からくる胃腸の不調でしょう」という事で吐き気止めをうってもらいました。私もその対応で良いと思っていました。2〜3日温めてあげれば新年はいつものように元気でいられると思い込んでました。

2-1:お別れ二日前

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ところが数日たっても食欲が戻らず、年明けの元旦にはペタリと寝込むようになり、足元がフラフラしてきました。黒い便が出たので「これは普通じゃない!」と病院に電話して飛び込みました。「こんなに痩せているではないですか!」とお医者に言われてキリンの胸骨を見たらクッキリ!!体重は減っていなかったので油断していました。そういえば、手で持ち上げた時の感触がおかしかったような・・気がつかなかった私のミスです。

「食べているのに体重が増えないのはおかしいです」とお医者から言われてイヤな予感がしました。レントゲンで腹部に腫瘍が見つかりました。かなり大きいです。それが足の神経を圧迫して立てなくさせているそうです。そしてその腫瘍はソノウにも影響を及ぼして、餌が腹に流れないようになっていました。キリンはソノウがパンパンに硬くなり苦しんでいたのです。餌を溶かす薬で処置をしてもらい、1日経過をみる事になりました。

「腫瘍はどの臓器にでているのか?は開けてみないとわからない。開けても状態によってはそのまま閉じることになります。この子の体力を考えると今は無理。ソノウの改善を試みる方が先。」と言われて、思わず「この子とあとどれくらい一緒にいれますか?」と聞いてしまいました。

「この子の状態だと、早くて一週間」信じられない言葉です。でも、・・・この時は「”早くて”でしょ、まだキリンは大丈夫」と思っていました。

2-2:お別れ一日前

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翌日の1月2日。
今日もキリンを連れて病院へ。お正月なので電車は空いていて「なんで正月なのに電車で病院なんだろう?」とボケーっと思っていました。まだこの時はキリンなら数週間は平気なんじゃなかろうか?という楽観?にも似た思いがありました。お正月休みがあけたら私は管理組合と親の病院で忙しいので「どうやってキリンの通院と両立させようか?」などと自分勝手なことを窓の景色を見ながら考えていました。

今日のお医者さまは「腹部のは腫瘍かどうかはまだわからない、ガスかもしれない。ソノウは洗って柔らかくして強制給餌で栄養がとれるか?やってみましょう」という強制給餌の指導がはいりました。前に経験しているので、帰宅してから給餌したキリンはよく食べて「もっと!」と欲しがるほどに元気になったように思えました。「まだ、大丈夫」と見てて安心できました。

2-3:お別れ当日

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翌日の1月3日も通院しました。
昨日と同じようにソノウの処置をしてもらって帰宅したキリンは給餌を嫌がり食べようとしません。0.2ccくらいしか飲まず、仕方なくケースに戻すことになりました。運搬時に少しケースを温め過ぎてキリンに暑い思いをさせてしまったのが原因かも・・・もっと気をつけてあげてればなぁと反省しました。

午後4時頃に異変はおきました。キリンのフンに鮮血が混じるようになったのです。少量ですが、見てわかるくらいです。それまでのフンの色は深緑だったのに、その色は一切無くなり、尿の白色と薬の黄色と鮮血。慌てて病院に電話をしたら「止血剤は投与しているのでもう処置はできません、これ以上は入院となってしまいます。」と言われ、覚悟を決めました。”連れてこい”と言われたらどうしよう?と悩んでいたのですが、”入院しかない”と言われてたら断固断る決心ではいたのです。キリンは入院に向かない子なのです。
病院には「今夜は私が面倒を見て、明日、連れて行きます」と電話を切って、キリンを看取る覚悟をしました。

午後5時過ぎには、それまで「寒いよ」とプラケースを32度にしても寒がっていたキリンがピタっと羽根を体につけて寒がらなくなりました。温度を25度にしても静かに両足でスッと立って微動だにしなくなりました。呼吸もおとなしく、じっと目を閉じています。瞑想しているようでした。

鈍感な私でも「キリンは旅立ちの準備をしているんだな。いよいよだな。」というのがわかりました。もうこうなっては私が取り乱していても仕方ありません。キリンが安心して旅立てるように「よし!普段の生活を感じさせてあげよう!」と夕飯の準備をしました。元旦から病院で忙しかったので、キリンと旦那と三人でお正月をやりなおそうと思い、冷凍してあった鯛を焼くことにしました。部屋の片付けも始めました。ケースにカバーをかけて見えないようにしてから掃除機をかけて部屋を綺麗にして「おまちどう〜」とカバーをとったら、キリンが倒れていました。もう動けないようでした。

慌てて保温カバーを取り払って、キリンをすくい上げると、体が異様に暖かかくて驚きました。体に残った最後の熱量を放出しているようでした。私の手で包み込もうとすると「暑いからイヤ」と言わんばかりに力の無い足で体をズラします。
呼吸が早くなって体全体でしているのに気がつき、別室でネットしていた旦那を呼びました「もうキリンはもちそうにないから、最後のお別れをしてあげてほしい」と。旦那と二人でキリンを手の上に乗せて「頑張ったね」と声をかけて撫でてやりました。

しばらく手にキリンを乗せたまま、家の中を歩いて、生活の音を聞かせてあげました。大好きだった秘密基地、水浴びした水道の蛇口・・寒くない範囲で声をかけながら家中の物と最後のお別れをさせてあげました。

午後7時頃になったら、小さく「プッキュ〜」とキリンは鳴いてから、目を大きく見開いて体をそらし始めました。何度も体を反らせて、私の手から移動し、洋服を足で掴んで上に上に登ろうとします。まるで、魂が肉体の呪縛の紐を引きちぎって抜け出るように見えました。何度も何度も。キリンの動きに合わせるように手を移動させて、「もういいよ、頑張ったね」「偉いね、頑張れ」と自然に声が出ていました。ちっとも怖くありませんでした、むしろとても美しい光景に見えました。魂が新しく生まれ変わる瞬間に立ち会ったように思えました。
私の掛け声に合わせるようにキリンは何度も体を伸ばして、最後に手のひらにペタリと伏せて、静かに息をひきとりました。3日の午後7時15分のことです。ちょうど鯛が焼きあがったのと同時でした。

その日は、キリンの遺体を食卓の前に置いて、焼きあがった鯛で「お正月、おめでとう」と三人でお祝いました。急逝してしまったにもかかわらず、大晦日と新年とを一緒に過ごすことができてラッキーだったと思います。翌日(4日)の午前9時30分にキリンの火葬の予約もいれることができました。妙に安心して夕飯を食べている間、「これでキリンが生きててくれてればなぁ」と箱に入って寝姿になっているキリンを見て、無理だとわかっていながらも、そう思ったのでした。

2-4:お別れ後日

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4日はまだ旦那も正月休み最終日で火葬に同席できました。
「キリンは親孝行だなぁ」と神様の手助けに感謝しました。これが平日なら冷凍庫で保管か、平日に一人で火葬してもらうしかなかったのですから。年末年始のお休みをフルに使って天国に戻っていったのには引っ掻き回されましたが、甘ったれキリンの最後のわがままだったのかもしれません。

浜すけの時と同じように焼かれた骨を拾い上げ、骨壷におさめました。その時に、首の手術をして埋め込んだであろうクリップらしき物を3つ見つけました。その時は「まさかね。溶けちゃったよなぁ?」と思ってたんですけど、撮影しておいたレントゲンの写真を見たら、まさにその形状でした。1つも外れることなくキリンは首にくっつけたままでした。(最後にわかって良かった!)

3-1:キリンとの生活を振り返り

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今から思うと、2014年のお玉さま事件で「メス鳥としての最後っ屁」をして、寿命のカウントダウンが始まったのかもしれません。それから9ヶ月後には首の腫瘤。そして半年後には腹部の腫瘍と続き、ジ・エンド。命の幕を閉じたのでしょう。少なくとも、お玉さま事件から1年3ヶ月は人間の処置で寿命を延ばすことができたのですから、幸せだったのかもしれません。

最後に、お医者さんから言われて救われた言葉があります。キリンの腫瘍がわかって、これ以上種子が食べられないともわかった時「こんなことなら発情抑制させずにもっと食べされてやれば良かった」とボソっとつぶやいたら「そんなことはないです!辛くても発情抑制させた方がこの子にとっては延命だったんです。生殖器の病気がとても多いんですよ。」と明確に教えてくれたことです。前の浜すけを発情からくる腫瘍で亡くしているので、発情抑制は私の一番の使命でした。1つでも私の行為がキリンの延命につながったならこんなに嬉しいことはないです。我が家に来てくれた意義もあったと思います。

8年2ヶ月のいろいろな思い出をありがとうね、キリン。また会える日を楽しみにしてるよ。いつか、どこかで。

4-1:二羽のインコを飼育して気がついたこと

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セキセイの浜すけとコザクラのキリンを飼育して、体調の変化に共通点があることに気がつきました。

「換羽ペースが早くなる」ことです。

若い頃は季節の変わり目にドーっとあるくらいでしたが、成熟期を過ぎて中高年になってくると抜け替わるのが2〜3ヶ月と短くなり、「あれ?また抜けたの?」と筒羽根が常にどこかしらに見えたような気がします。浜すけの時は「私の体調管理が悪いからこうなったんだろう」と思っていたんです。でも、キリンも浜すけも、換羽が短くなってから2年以内に病気を発症したような記憶があります。

今から思うと「換羽ペースが短くなる=ライフサイクルが短くなる=寿命が縮まっている」であり「寿命という終着点」を抑えて考えた方がいいのでは?と気がつきました。外の時間(季節=365日)と内の時間(細胞が正常に機能できる時間)は別物なのです。私達だって、環境や持病にとって寿命は人それぞれです。もし、長生きをさせたいならば、若いうちのケアも大切ですが、「あれ?去年とは違うな?」と気がついた時がターニングポイントかも。食事や温度管理、毎日の声かけなど気遣ってあげれば命のタイムリミットは延ばせる気がします。

もし、次にインコを飼うことができたなら、今までの経験をフル活用して、10年以上は長生きさせてあげたいです。もし、神様がチャンスを与えてくれるなら。もし、インコが「この人のところで人生を送りたい」と願ってくれるなら。

<終>

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